ケータイ的人間関係


現代は人間関係が希薄化しているといわれています。


それは、携帯電話をはじめとする情報通信技術の爆発的な発達によって、間接体験が増加し、それがコミュニケーション能力の不足に繋がっているというのです。


特に教育論者、評論家、現場の教師等、中等教育までの学校関係者の間では携帯電話やインターネットは諸悪の根源として扱われる悪者です。


現に私の大学の教職課程のY教授は、インターネットと携帯電話によってもたらされる間接体験を酷評してました。


社会現象の中で悪い物には必ず何か理屈をつけてそれを原因として、「それは悪」と決め付けたがる風潮があります。


高校生の携帯電話所有率は非常に高くなっており、授業中でも電車の中でも歩きながらでもポチポチとメールを打っている風景が思い浮かびます。確かにマナーが悪いとは思います。


話がちょっと前後しますが、携帯電話はデータの通信を行わなければ、医療機器等に影響を与える強力な電波は発しません。


具体的に強力な電波を発する時というのは、電源を入れた時に基地局の電波を探している時、データ通信時、通話時です。


なぜ、医療機器に影響を与えるかというと、電車の車体の素材はスチールやアルミなどの金属です。


当然、それらの金属の部分は窓ガラスより多いわけですから、通信を行うと、車体の中で電波が反射し、他の電波も加わることで共鳴し合い、より強力な電波になり、医療機器に悪影響を与えるからだそうです。


簡単に言えば、電子レンジの中と同じような状態になります。


しかしながら、現在は携帯電話の電波と干渉しないペースメーカー等の医療機器が開発されており、それほど問題は無くなってきています。


どちらかといえばマナー的な問題が大きいですね。通話をするのはもっての他ですが・・・。


話が逸れてしまいましたが、逆に携帯電話等の情報通信機器の発達が、人間関係を強化したという逆の意見もあります。


希薄化したと言われる人間関係は、家族や地域、生まれ育った共同体の習慣で決まる伝統的な人間関係であり、人間関係そのものが希薄化したのではい、社会が個性重視化、多様化、複雑化というように変化した、つまり時代が変化したことによって、人間関係の有り様が変わったと言うのが妥当かもしれない。


私たちは本来、集団への帰属意識が高く、孤独への恐怖は常に持っているはずである。人間関係が希薄化したのなら、自分の存在が確認できず、不安なってしょうがない状態に陥るはずである。しかし、大多数の人は強い孤独感は感じていない。


このことからも直接的に人間関係が希薄化したとは考えにくい。


確かに伝統的人間関係は非常に薄くなっているかもしれない。しかしながら、先に述べたように社会が変化し、多様化したために限られた環境のみで醸成された伝統的人間関係では対応できないような新たなタイプの人間関係が現れ、それに対応できない、コミュニケーションの取り方がわからない子供たちが増加し、それが「コミュニケーション不足」と捉えられているという考え方もできる。


私たちの友人関係においても、趣味や嗜好などにより複雑にグループ化されており、一人で複数のグループに所属しているといえる。


携帯電話はそれらのグループの成立を容易にし、各個人はそれぞれのグループに、その時の気分や時間、目的等に合わせて選択的にコミュニケーションを取っている。


従来のコミュニケーション方法では選択的な接続は不可能である。


従来は友人と話すのなら、実際に面会するか自宅の固定電話を使うかのどちらかに限られる。実際に面会をするのなら、当然話し相手が目の前にいないといけないし、自宅の固定電話では友人同士の「秘密の会話」も家族に聞かれてしまうかもしれない。また一般的なマナーとして電話を掛けると失礼に当たる時間もある。


このように従来のコミュニケーション方法には空間的、時間的な制約があった。


その制約を解消したのが携帯電話であるといえる。いつでも電話を掛けられるとはいえ、通話機能を使うと相手の時間を拘束してしまうが、携帯メールなら相手の都合も考えることが出来る上に直接的なコミュニケーションで生じるリスクも回避することができる。また、電話を掛けるほどではない相手へ定期的に連絡することによって、人間関係も維持することができる。


「いつでも、どこでも」コミュニケーションを取ることができ、複雑化した人間関係へ対応できることから、携帯電話は時代に合わせた新たな人間関係において、関係を強化するのに重要な役割を果たしているコミュニケーションツールであるといえる。